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悪者と僕

その封筒を、
最初に見つけたのは僕だった。
――これって、 お母さん、 
封筒の中には、母の写真が入っていた。
すべては、
この時から始まった。

僕が高校生になって初めての冬は、
年が明けてからもっと寒くなって、その日は小雪がちらついていた。

学校から帰った僕は、
普段、気にもしない郵便受けに目がとまった。
大きな封筒が半分以上はみ出したまま、受け口に差し込まれていた。
郵便受けから抜き取ってみると、
表も裏も、その茶色の封筒には何も書かれていなかった。
それに、封も糊付けされていなかった。
僕は早く家の中に入って、冷えきった体を温めたかったけれど、
その得体の知れない封筒が、何だかとても気になった。
手袋をしていても、かじかんで震える指先で中身を探ると、
その中から、母の写真が出てきた。
A4サイズで、二十枚近くあった写真には、すべて母が写っていた。
とっさに、
僕は辺りを見回した。
誰かが、僕を見ているのではないかと思った。
でも、通りをはさんで家々が向かい合う新興住宅街に、人の姿はなかった。
手にした写真に、小雪の粒が舞い降りた。
母の顔に、白い粒がまとわり付いては、融けて消えていった。
僕の体が、ぶるっと震えた。
凍てつく寒さのせいなのか、それとも湧き起ってくる恐ろしさのせいなのか、
きっとその両方で、僕の体が急に震えだした。

「お母さん、 、お母さんっ、 、」

家の中に飛び込んだ僕は、大きな声で叫んだ。
大変な物を見つけてしまった、そんな思いが僕を慌てさせた。
よほど僕の声に切迫感があったのか、母はすぐにやって来た。
しかしそれでも、
ぱたぱたと廊下に響くスリッパの音は、いつものようにのんびりしたものだった。
台所にいたのか、母は緑色のエプロンで手を拭きながらやって来た。

「どうしたのよ春樹、 、あら、雪降ってるの」

母は、僕の頭を見て、少し怒ったような顔した。

「だから言ったじゃないの、傘もって行きなさいって、 、もう、」

廊下で僕と向き合った母は、
僕の頭の上で、融けきっていない小雪の粒を払ってくれた。
僕の髪がくしゃくしゃになるくらい、少し乱暴に、何度も払ってくれた。
高校生になった僕を、いまだに子供扱いする母だった。

「風邪ひいたんじゃないの、あんた顔が蒼いわよ」

僕の額に当てられた母の手は、とても暖かかった。

「よし、熱はないみたいね、 、え、何よこれ」

僕が差し出した封筒を受け取った母は、その封筒と僕の顔を交互に見た。
その時きっと、僕は泣きそうな顔をしていたに違いない。
僕の表情から、何か不安を感じ取ったのか、
母はその封筒をじっと見つめて、思い切ったようにさっと中身を取り出した。

「あら、 、いやだわ、
もう、退学処分のお知らせかと思ってひやひやしたわよ、
 何よこれ、 、こんなものどこにあったのよ」

僕が説明する前に、母は含み笑いをもらしながら、一枚一枚めくっていた。
その封筒の経緯を話すと、
なおさら母は面白がって、そのうちの一枚をひらひらと目の前にかざした。

「へえ、よく撮れてるわねえ、ふうん、敵はプロかも知れないわねえ、
 なるほど、ストーカー2号の登場ってとこかしら、ホントまいっちゃうわ」

僕を無視して、母はもう台所に向かっていた。
なんだか、僕は気が抜けてしまった。
かわりに腹が立った。
――なに言ってるんだよ、ストーカーっていうのは、もっと若い女を狙うんだぞ、
ストーカーに狙われたことが自慢そうな母に、僕は腹が立った。
声を上げて笑っている母を見ると、
僕はその封筒の中身で大騒ぎした自分が、馬鹿に思えてきた。

その写真は、母の日常を写したものだった。
スーパーで買い物する母の姿を写しただけの、ただそれだけの写真だった。
でも、
玄関先で最初に見たとき、僕は本当に恐ろしくなった。
この頃は、とんでもなくイカレタ野郎が多い世の中だ。
最近よくニュースになる通り魔殺人、
その標的に母がされたのではないかと心配した。
封筒の中身が、母を殺す予告状のような気がしてならなかった。
ただ、
あきれるほど能天気な母を見ていると、
そんなふうに母を心配した僕の頭のほうが、イカレているように思えてきた。

その封筒を食卓に置いたまま、母は煮物の火加減を見ていた。
楽しそうに晩ご飯の支度をする母を見ていると、本当にバカバカしくなってきた。
――僕もどうかしてるよ、通り魔殺人なんて、あるわけないよな、
二階の自分の部屋に上がろうとした時、
僕はふいに、母の言葉が気になった。
――さっきお母さん、ストーカー2号って、 、
僕は、台所の母に駆け寄った。

「お母さん、二号って、どういうこと、前にも何かあったの」

母は、ちょっと困ったような、それでもなんだか可笑しそうに僕を見た。

「そうよね、春樹は知らなかったのよね、
あのね、 、ここに引越して来たころね、 、うふふ」

三年前、僕の家族はこの家に越してきた。
ちょっとお洒落な感じのする、この新しい住宅街を僕は気に入っていた。

「若い男の子がね、私のあとつけたり、家の前をうろうろしたり、
 私がその子に気づいて、二週間ぐらいしてからかしら、
その子ね、『僕とつき合ってください』って、真剣に言ったのよ」

母は煮物をほったらかしにして、喋り続けた。
もう楽しくて仕方ない、そんな様子の母だった。

「道の真ん中で、いきなりなのよ、びっくりしたわ、
 でも私、そういうの慣れてるから、 、さらっとかわして逃げたのよ」

母は煮物が気になったのか、鍋のふたを開けた。
そして僕に背を向けたまま、また話し始めた。

「でもね、その後もあまりしつこいから、お父さんに言ったの、
そしたらね、あの人ったら顔を真赤にして怒っちゃって、
家の前にいた男の子に文句言ったのよ、すごく怒って、
、 、信じられる、あのお父さんが本気で怒ったのよ」

鍋にふたをして火を弱めた母が、僕にふり向いた。
母は、本当に楽しそうだった。

「大学生みたいだったけれど、
その子ね、背が高くて、わりとハンサムだったのよ、
もうまいっちゃうわ、世の中の男はみんな私に夢中なんだから」

そう言った母も、
さすがに照れたのか、少し顔を赤くして冷蔵庫を開けた。

「いやだわ、私ったら、春樹にこんなこと言って、 
心配しなくてもいいのよ、あれからあの子は来なくなったし」

それきり母は話をやめて、
冷蔵庫から取り出したタッパーを開けて、晩ご飯の支度の続きを始めた。
どこかおっとりしたところのある母も、料理の手際だけは鮮やかだった。

僕はそんな母のうしろ姿を、不思議な思いで見つめた。
僕は、どうしてその大学生が、母を一人の女として見たのかよく分からなかった。
僕には、母と同じ年齢のおばさん達は、みんな一緒に思えた。
その中でどうして母が選ばれたのか、とても不思議だった。
確かに僕の母は、
美人の部類に入るかも知れないけれど、そんなに目立つとは思えなかった。
別に派手な服を着るわけでもないし、髪型もごく普通にカールしてあるだけだった。
お化粧なんか、ちょっと口紅を引いて、はい終わりっていう感じだった。
だいたいストーカーなんて、
若くて綺麗な女の人を狙うものだと思っていた。
僕があの写真を見つけた時、ストーカーなんて言葉、浮かんでもこなかった。
――お母さんのどこがいいんだろう
母のどこに魅力があるのか、僕にはよく分からなかった。

僕が二階に上がろうとした時、電話が鳴った。

「ちょっと春樹、あんた出てよ」

台所にいる母は手が放せないらしく、
一度、階段を上りかけた僕は、引き返してリビングの電話に出た。
その電話は最初、無言だった。

「もしもし、あの、どちら様ですか」

「、 、 、おまえ、息子か」

低くおさえた男の声がした。
――なんだよ、こいつ、
いきなりそんな事を言ってきた相手に、僕はムッとした。
でも、日頃から、電話の応対だけはきちんとするようにと、
母から厳しく言われている僕は、我慢して受話器をにぎり直した。

「あの、どちら様ですか」

「、 、おまえ、上か、下か、どっちだ」

「えっ、 、あのう、長男ですけど、 、」

「お袋さん、いるか」

なんて奴だと思いながらも、僕は母を呼んだ。
相手がどんなに非礼な奴であっても、
母へかかってきた電話を、僕が勝手に切るわけにもいかなかった。
僕はムッとしたまま、突き出すようにして、母へ受話器を渡した。

「もしもし、お電話かわりました、杉浦でございます」

母は相手にそう言ったあと、
横に立つ僕を見て、なぜか嬉しそうに笑った。

「切れたわ、 、でも夕方かかってきたのは初めてね、
ねえ春樹、あんた声聞いたんでしょ、ねえ、どんな声だった」

母が言うには、今年なって何度か無言電話があったそうだ。
でもそれは、決まって昼過ぎで、
夕方かかってきたのは今日が初めてだと言った。
僕が、下品なオッサンみたいだったと告げると、母はいかにも残念そうな顔をした。

「あら、若い子じゃなかったのね、ちょっとがっかりしたわ」

母は何事もなかったように、台所へ戻っていった。
僕はあきれてしまった。
普通、こういう時はもっと心配したり、怯えたりするのが当り前なのに、
僕の母は、むしろそれを楽しんでいるように思えた。
危機感というものがまったくない、能天気な母に、僕は心底あきれた。
気楽な母を見ていると、つかのま僕も和んだ気持ちになったけれど、
でも、あらためてその電話を思い出すと、僕はやっぱり不安になった。
男の声は、
感情の波をまったく感じさせない、不気味なものだった。
――それに、あの写真、
もし、電話の男があの写真に関わっているのなら、
そう思うと、僕は一層不安になった。    
僕たちの家族構成まで知っている男が、
少なくとも一度はうちに来て、意図が不明の封筒を郵便受けに押し込んだ。
自分の姿は見せないで、母をレンズから覗く中年男。
やはり僕には、母の声だけを聞いてすぐに切ってしまう無言電話に、
何か悪意があるとしか思えなかった。    
新聞の社会面にある、いくつかの見出しが、僕の頭に浮かんだ。

晩ご飯の時間になって、
僕が二階から下りてみると、父と弟はもう帰っていた。
秀才が集まることで有名な私立中学に通う弟を、僕はあまり好きではなかった。
まだ中一のくせに、妙に大人びたところのある弟を、僕は疎ましく思っていた。
――あれ、まただ、
食卓の準備をする母は、服を着替えていた。
母は、料亭の女将さんが着るような和服に着替えていた。
――また始まったよ、
去年の夏は、隣のお姉さんから浴衣を借りてきて、それを着た。
年齢にそぐわない桃色の浴衣を着て、母は楽しそうにはしゃいでいた。
たまに、
僕の母はそんな事をして、僕たち家族を驚かせた。
でも、驚くのは僕と父だけで、
弟はしっかり母のペースに合わせていた。
『お母さん、よく似合うよ、とっても綺麗だよ』とか言って母を喜ばせた。
そんなとき母は、
『あら、秋雄はいい子ねえ』と、弟に頬ずりした。
僕はそういう二人から目をそらした。
そんなことを、ぬけぬけと言える弟が、僕は嫌いだった。
その日は、
和服を着た母のことを、弟は『お母さま』と呼んでいた。
きっと母に強制されたのだろうけれど、
弟は照れもしないで、母の調子に合わせていた。

 ――― ――― ―――

期末テストの初日が終って、
昼過ぎに家へ帰った僕は、一人でラーメンを作った。
母はもう、スーパーへ買い物に行って家にいなかった。
食べている途中、電話が鳴った。
写真を見つけた日から、一ヶ月ほど過ぎていたけれど、
その間、新たな封筒を、郵便受けに見ることはなかった。
でも無言電話は何度か、かかってきたようだった。
先週、僕が尋ねると、『たまにね』と、母は気にもしていなかった。

ひょっとしたら、と思った通り、
その電話は、やっぱり最初、無言だった。
僕がその電話を叩き切ってやろうした時、突然、「おまえのお袋さん、いい女だ」
この前と同じ、抑揚のない、暗い声で男が言った。
気勢をそがれて、電話を切りそびれてしまった僕に、ふたたび男が言った。

「なんでおまえ、そこにいるんだ」

「テストなんだよっ、 、」

答えるつもりは無かったのに、つい、男につられて喋ってしまった。
たて続けに男は、「おまえ、お袋さんのこと好きか」と僕に聞いてきた。
――あたりまえだろっ
怒鳴ってやろうかと思った瞬間、電話が切れた。

僕は、なんとも腹が立ってしょうがなかった。
本当は、僕が先に切るはずの電話を、相手に切られてしまった。
バカバカしいとは思っても、勝負に負けたような口惜しさは、いつまでも残った。

その口惜しさは、あの日の夜のことを蘇えらせた。
写真を見つけた日、母が和服を着たあの日。
晩ご飯のとき、
母と弟は楽しそうだった。
いつものように、そんな二人を見ているだけの父も、楽しそうだった。
弟が『お母さま、僕、塾のテストで百点取りました』と言えば、
『まあ、秋雄さん、なんてお利口さんなんでしょう』と、母は優雅に笑った。
そういう芝居じみたやり取りに、僕はついて行けなかった。
本当は、
一緒になって騒ぎたかったのに、僕にはできなかった。
なにか面白いことを口にしようとしても、頭の回転が鈍い僕には無理だった。
その夜も、僕は一人いじけてご飯を食べていた。
まだガキのくせに、弟の大人びた口ぶりが癪にさわった。
――もう、うるさい、
僕は、あの写真と電話のことを父に告げた。
楽しい食卓に水を差すのを承知の上で、僕は父に言った。
父は、お酒に酔った顔を真赤にして、そのことを母に問いただした。
写真のことは当然としても、
何度かあったはずの無言電話についても、父は初耳のようだった。
そのことで父は怒っていたけれど、でも、とても母を心配していた。
母が持ってきた写真を見ながら、
『警察には連絡したのか、どうしてすぐに言わなかったんだ』と、怒っていた。

僕は食卓を白けさせてしまった。
弟が、僕を小ばかにしたような目で、ちらっと見た。
あいつの言いたいことは、分かっていた。
(間の悪い兄貴だぜ、今そんなこと言わなくてもいいだろ)
僕はそんな弟が、大嫌いだった。

―――  ―――  ―――  

期末テストの二日目、
家に帰った僕は、買い物に行く母を見送ったあと、一人で昼食をとった。
僕の父は、
写真の件を警察に届け出るべきだと強く言っていたけれど『そんな、大袈裟だわ』と
嫌がる母に押し切られて、結局、警察には連絡していなかった。
その代り、用心のため、買い物に行く時間を早めるようにと、父は主張した。
父を安心させるためなのか、母はその言葉には従ったようだった。
それまでは夕方だった買い物の時間を、昼過ぎにずらしていた。

僕は、前日の電話を母に言わなかった。
男とのやり取りで負けた自分を、間抜けな息子だと母に思われたくなかった。
それに、母のことを『いい女だ』と、
男が言った電話の中身を、口にするのはなんだか気恥ずかしかった。

僕が、食べた食器を片づけようとした時、電話が鳴った。
昨日と同じ時間だった。
僕は少し迷ったけれど、やっぱり出ることにした。
馬鹿やろう、
そう言ってすぐに電話を切るつもりだった。
でも、どうせ最初は無言だろうと油断した僕に、男はいきなり声を出した。

「おまえ、馬鹿か」

不意をつかれた僕は、怒鳴ることも、電話を切ることもできなかった。
これまでと同じで、感情のこもらない、冷たい声だった。

「俺だと分かっていて、なぜ電話に出る」

――だったら電話してくるなっ、
僕が怒鳴ろうとすると、
すかさず、「おまえのお袋さん、いい女だ」と、男は前の日と同じことを言った。

「女も、若いころは誰でもみな、それなりによく見える、
 だが、三十、三十五を過ぎると、しだいに崩れてくる、
 四十になると、ほとんどすべての女は、ただの醜い生き物になる」

この日の男はよく喋った。
僕は電話を切るのも忘れて、男の話に聞き入った。

「そういう女たちの中で、おまえのお袋さんは、数少ない例外だ、
 スーパーにも男の店員がいるだろう、
 おまえ、知っているか、 、やつらが、どんな目でお袋さんを見ているか」

暗く、沈みこんでいくような、男の声だった。

「夫婦連れでスーパーにやってきた亭主たちが、
どんな目でお袋さんを見ているか、おまえは知らないだろう」

男が初めて「ふっ、」と笑った。
息をしただけなのかも知れないけれど、僕には男が笑ったように思えた。

「おまえ、こういう話が聞きたかったんじゃないのか、
、 、弟のほうは利口そうだが、 、おまえは馬鹿だな」

僕が何も言えないまま、電話は切れた。
僕は自分が情けなくて、少し泣いてしまった。
なんだか、すごく口惜しかった。
弟と比較されて、
それが事実だと僕も分かっているから、たまらなく悲しくなった。

僕の母は、有名な国立大学を出ていた。
高校生になって、
その大学に入るのがどれほど難しいことなのか、いやというほど思い知った。
並みの努力と頭では、とても合格できない大学だった。
たぶん弟は、母の血をそっくり受け継いでいるのだと思う。
その反対に僕は、まるっきり父の二世だった。

母が和服を着たあの夜、
白けてしまった食卓で、弟が母に尋ねた。

「どうしてお母さん、お父さんと結婚したの」

揚げ物を、箸でつまむついでに弟はそう言った。
自分の両親のなれ初めを、真剣に問う息子の姿ではなかった。
意味不明の写真と無言電話に、オロオロする父を蔑んでいるように思えた。
そして、いじけた僕には、
(どうしてこんな奴が、僕の兄貴なの)と同時に言っているように聞えた。
そんな弟に、
母はめずらしく怒った顔を見せ、姿勢を正して椅子に座りなおした。

「あなた達のお父さんは、誠実で、優しい人なのよ、
 そこらで格好つけてる男なんかより、はるかに立派な人なのよ」

母の実家では、その親戚の人たちも含めて、
いまだに父と母の結婚を不思議がっていた。
事務用品の営業をしていた父が、大きな会社の総務部にいた母のところへ、
ほとんど毎日のように、一年近く通いつめたというのは有名な話だった。
母の実家の人たちは、
悪く言えば愚鈍にも見える父を、いつも冷遇した。
父とそっくりの僕も、あまり相手にされなかった。
でも、母の頭のよさを受け継いだ弟だけは、人気者だった。

あの夜、弟を叱るように、父の良さを説く母は、とても素敵に見えた。
そして母に諌められた弟を、ざまあみろ、と思った。
でも、
やっぱり僕には不満が残った。
かりに叱る時でも、またどんな時でも、
母は弟を、一人の人格を持った男と認めて、向き合っているように思えた。
しかし僕に対しては、
いまだに、子供扱いしているように思えてならなかった。
ひがみだと分かっていも、僕は、ほんの少しだけ母を恨んだ。
そして、食卓に座る中学一年の大人びた弟に、憎しみの目を向けた。

電話の後、
あの日の夜をまた思い出していた僕は、
買い物から帰ってきた母に気づかなかった。
リビングと通しになっている台所から呼びかけられるまで、
僕は立ったまま、ずっと目の前の電話を見つめていた。

「どうしたの春樹、またあの電話でもかかってきたの」

買ってきた物を冷蔵庫に入れながら、母はそう言った。
そんな母に、僕は不満をもった。
弟に話しかけるときは、必ず、きちんと顔を向けるくせに、
どうして僕のときのは、こっちを見てくれないのだろうか。
僕のことなんか、何かのついでのように思われている気がした。
なんだか無性に悲しくなって、また涙ぐんでしまった。
僕は、
何も言わずに、そのまま二階へ上がった。

―――  ―――  ―――

期末テストの三日目、
その日は寒かったし、僕は急いで家に帰った。
試験の出来はいつも以上に最悪だったけれど、そんなことはどうでもよかった。
――今日こそ、
どうせまた、あの男からかかってくるはずの電話に、僕は負けたくなかった。
今日こそ、あいつを怒鳴りつけてやろうと思った。
そして、(僕、電話の男をやっつけてやったよ)
そう胸を張って母に言いたかった。

母が買い物に出かけたあと、
僕は、あの写真をもう一度、見たくなった。
あの夜、ゴミ箱へ捨てようとした母に、『面白いからとっとけば』と、
弟がリビングのマガジンラックに、その封筒を入れていた。

よく見ると、それらは写真ではなく、プリンターで印刷された画像だった。
専用の紙にプリントされた画像は、写真と見まちがうほどだった。
きっとあの男が撮ったに違いない母の姿を、僕はじっくり見た。
よく撮れてはいたけれど、
そのどれも、構図が少しずれていたり、斜めになっていたりした。
きちんとカメラを構えて撮ったのではなく、
きっとカバンか何かの中へ巧妙に隠して、それで写したものと思われた。
そこには、
楽しそうに買い物する、普通の主婦の姿が写っていた。
ほうれん草を手に取って確かめたり、
カートを押しながら魚売り場に顔を向けたり、そんな姿ばかりだった。
ただ、日ごろ見慣れているはずなのに、
こうした一瞬の姿を写し出された母は、とても新鮮に見えた。
いつも家にいるのが当り前の母を、
僕はこれまでよく見ていなかったのかも知れない。
気づいた事が一つあった。
それは、意外なほど、母のスタイルはよく見えた。

世間の男達がどんな目で母を見ているのか、知っているかと男は僕に尋ねた。
きっとあいつは、母が色気をふりまく、
ふしだらな女だと言いたかったのだろうけれど、全然そんなふうには見えなかった。
写っている母は、
僕が知っている以上に、知的で、真面目な人に見えた。
タートルネックのセーターをかたどる胸元も、
ロングスカートに包まれた腰つきも、全然いやらしさを感じなかった。
電話がかかってきたら、この事をはっきり言ってやろうと思った。

その日、
かかってくるはずの時間に、電話は鳴らなかった。
母の帰りも、少し遅れているような気がした。

僕は、帰りの遅い母を心配した。
スーパーの駐車場で、風になびく髪を片手で押さえ、
車のドアにキイを差しこむ瞬間を写された母の横顔を見ながら、
僕は不安になった。
母が事故を起こしたのではないかと心配した。
悪い知らせがありはしないかと、僕はびくびくしながら、電話を見つめた。
もう、あの男のことなんか、どうでもよかった。

家の外が暗くなっても、母は帰ってこなかった。
ガレージは、からっぽだった。
携帯電話を持っていない母には連絡の取りようがなかった。
何か急用ができて寄り道しているのか、
――それとも、
大破した車と、血まみれになった母を、縁起でもなく思い浮かべてしまった。
ただ、そのいずれにしても、連絡があるはずだった。
僕は、父の会社に電話しようかと思った。
最近の父は仕事が忙しいらしくて、いつも遅くに帰ってきた。
もし六時を過ぎても母が戻らなければ、その時は父に電話しようと思った。

母は、僕が父に電話をする前に、帰って来た。
静まり返った家の中で、僕は玄関のタイルに響く、硬い靴音を聞いた。
ハイヒールの音だと思って行ってみると、やはり母だった。
僕は本当にほっとした。
でも、母の様子は少し変だった。
出迎えた僕から、母は顔をそらした。
コートの合せ目をしっかり握る母の右手が、震えていた。

「、 、ご免なさい、 、外は、寒かったから、 、」

僕がどうして遅くなったのか尋ねる前に、母はかすれた声でそう言った。
そして、ハイヒールを脱ぎ捨てるようにして家に上がると、
僕のわきをすり抜けて、スーパーの買い物袋を持ったまま洗面所に向かった。
すぐに、その洗面所からは、
いかにも苦しそうに、むせかえって胃の中のものを吐く、母の様子が聞えてきた。
僕は心配になって、廊下を走って洗面所に行った。

「来ないでっ」

これまで聞いたこともない、もの凄く怒った声で母が叫んだ。
母の背中をさすってあげるつもりだった僕は、
突然きつく叱られて、ただ怯えてしまい、洗面所からあとずさった。

母はそのまま、お風呂に入ったようだった。
――そんなに怒らなくてもいいじゃないか、
よほど体の具合が悪いのか、
玄関で見た母の顔は真っ青だったし、唇は紫色になっていた。
それに目は、泣いたあとのように充血して潤んでいた。
でも、
いくら気分の悪いところを見られたからって、
親子なんだから、あんなに怒鳴らなくてもいいのに、と僕は思った。
遅く帰ってきた理由や、すぐにお風呂に入る訳を考える前に、
僕は、そんな母に腹を立てた。

そんな時、リビングの電話が鳴った。
耳障りに響くコール音を早く止めたくて、
乱暴に受話器をとった僕は、ぶっきらぼうに「はい、杉浦です」と答えた。

「お袋さん、帰って来たか」

あの男からだった。
今日こそ、と思っていた電話だったけれど、
なんだかこの男を相手にする気分ではなかった。
訳もなく母に叱られて、僕は苛々していた。

「おまえのお袋さん、いい体をしていた」

――こいつ、なに言ってるんだ、
男の声には、相変わらず抑揚がなかった。

「締まりも良かったし、肛門は初めてみたいだったな」

――シマリ、コウモンって何だ、
母のことを言っているのは分かったけれど、
すぐには、その単語の意味を理解できなかった。

「フェラは下手くそだったが、
そのぶん、顎がしびれるまでさせてやった」

僕の頭が、急に熱くなった。
――コウモンって、お尻の、 、フェラって、口でするあの、
とっさに僕は
「おまえ、まさかっ」と叫んでしまった。
そんな僕の怒りの声にも、あの男は平然としていた。

「、 、たっぷり、楽しませてもらったぞ」

「おまえ、よくも僕のお母さんをっ、 、」

「そんなに怒るな、 おまえだって、興奮しているだろう、
うずうずと血が騒いで、もう勃起しているんじゃないのか」

僕は「ふざけるなっ」とまた叫んだ。
冗談じゃない、母親をレイプされて悦ぶ息子がどこにいる、
そう言ってやりたかったけれど、
頭に血が昇っていた僕は一言、そう叫ぶのがやっとだった。

「坊ず、嘘をつくな、
おまえのように弱くて、いじけた奴は、皆そうなる」

あいつは、
人の悲しみや嘆きを、嘲笑って楽しむ恐ろしい男だった。

「おい坊ず、おまえ、見たいと思わないか
美人の母親が犯される姿を、見てみたいだろう、
欲しかったら、いくらでも印刷してやるぞ、 、」

レイプされる母の姿。
僕の心臓が、変な間隔で脈動した。
――そんなもの、
母親の不幸を見たい奴なんているもんか、
そう思ったけれど、僕はその時、とても息苦しくなった。

「もし俺が、警察に捕まっていなければ、見せてやる、
 いつでもいいぞ、電話してこい、俺の携帯の番号は‐‐‐‐‐、」

僕の右手が、勝手に動いた。
電話の横にある小さなメモ帳に、その番号を書いてしまった。
間違えないように、それでも素早く数字を書いていく自分が、そこにいた。
男からの電話が切れたあと、
僕は荒い呼吸を繰り返しながら、メモ用紙を呆然と見つめた。
まぎれもなく自分が書いたはずの数字を、信じられない思いで見つめた。

 

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